Материал радио “Голос России” о 70-летии казни Рихарда Зорге (на япон. языке)

ゾルゲ、刀の切っ先を走り抜けた男
今から70年前の1944年11月7日、伝説的なソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの心臓の鼓動は止まった。ゾルゲ
はラムザイの通称で歴史にその名を残した。そして今度は今から50年前の1964年の11月、ソ連では初めて、ゾル
ゲの諜報活動に関するきちんとした形の評価がなされた。ロシアの声はこの日にあわせて特別番組を組み、リヒャルト・ゾル
ゲの生涯からいくつかのエピソードをぬきだし、著名な日本研究家のアンドレイ・フェシュン氏、アレクサンドル・クラノフ氏の
見解をご紹介したい。
1944年11月7日の朝、東京の巣鴨拘置所。人間の歩みで図れば縦が5歩、横は3歩という狭い独房。天井に
ぎりぎり近い位置に格子の入った小窓。小さな電球が1人の受刑者をぼんやりと照らし出している。閂がかちゃかちゃと音を
たてた。扉の敷居には看守と2人の警備員、そして主任牧師の姿。秩序を遵守しながら、看守が口を開く。
「あなたの名前は?」
「リヒャルド・ゾルゲ」
「年齢はいくつですか?」
「49歳」
「東京地方裁判所は絞首刑による死刑を言い渡し、最高裁判所は控訴を取り下げました。これはご存知ですか?」
「はい、知っております」
「執行は44年11月7日、つまり今日行われることになっております。覚悟はよろしいですか?」
「覚悟は出来ております」
看守は受刑者の視線を床に促した。床の真ん中にはハッチのふたがあった。ゾルゲはそのふたの上に立った。ゾルゲ
の首に縄がかけられる。そしてハッチのふたが開けられた。こうしてリヒャルト・ゾルゲの命は露と消えた。ゾルゲの死体は
拘置所の墓地にある無縁墓地に埋葬された。
ゾルゲの訃報は彼に非常に近しかった女友達の、石井花子に伝えられた。石井はこれに絶望したが、それでもこの日か
ら彼女の人生は再び新たな意味を帯びた。石井はゾルゲの遺体を捜し出し、墓を建て、人々にこの人物のことを伝えること
を自分の使命と肝に銘じた。そして1949年、彼女の念願が叶う。石井花子はゾルゲの遺体を捜し出し、荼毘に付し、
東京の多磨霊園に埋葬しなおした。石井花子のおかげで日本語とドイツ語でリヒャルド・ゾルゲと銘を入れた墓石が立てられ
た。
ソ連邦がゾルゲの貢献を認めるまでの間の1960年代の初頭まで、石井花子は1人でゾルゲの墓守をしていた。
1964年11月5日、ソ連最高会議幹部会が次のような勅令を出した。
「祖国に対する貢献と勇敢かつ英雄的行動を讃えて同士リハルド ・ゾルゲにソ連邦英雄勲章を授与する」
このすぐ後、ソ連政府はゾルゲの墓所に、ロシア語で彼の名を刻んだ墓石を加えた。そこには「ソ連邦の英雄、リハ
ルド ・ゾルゲ」と記されている。
今のロシア人にとっては、リヒャルド・ゾルゲは記念碑や文学作品に描かれ、諸都市のあちこちの通り、広場に名を冠す
る存在であり、第2次世界大戦時代に英雄的に活躍した輝かしいスパイとして刻まれている。ゾルゲについてはほとんど全
てが明らかにされていると思われているが、実は全くそうではない。1941年秋、東京でゾルゲとその一味が逮捕された
後、彼の名はソ連では忘れるがままにされていた。そしてそれからほぼ20年にわたって同じ状態が続いていた。だがこれ
は何の不思議もなく、非難されるようなものでもない。世界で暗躍するスパイのほとんどはその名も知られないまま消え去っ
ていくからだ。
ゾルゲのスパイとしての主な功績は一体なんだったのだろうか。高等経済学校の助教授で日本専門家のアンドレイ・フェ
シュン氏は次のように語る。
「1940年12月から始まってゾルゲはソ連の諜報参謀本部指導部に対し、わが国への攻撃準備に関する機密情
報を送りつけ、文字通りこれを『爆撃し続けた』。そして攻撃の期間について知らせるだけでなく、ヒトラー軍がどこに一
番の打撃を加えようとしているのか、正確な方向までも報告したのだ。
ところがゾルゲの報告をモスクワは信憑性を欠くとして受け止め、この点において除外的に注意深く受け止められて
いた。ゾルゲの悲劇はまさに、最も重要度の高い戦略的情報でさえも諜報部の疑いを招いていたという点にある。だがい
ったん戦争が始まると、ゾルゲの忠誠心は明確になり、軍事的性格の要請が次から次に寄せられるようになった。」
ゾルゲの功績は彼がソ連に対するヒトラーの攻撃を伝えていただけに留まらない。ゾルゲはドイツのソ連攻撃の日をはっ
きりと6月22日と明言していたのだ(これについては他のエージェンシーも情報を伝えていた)。1941年秋、ゾルゲ
は日本は対ソ参戦は行なわず、太平洋上で米国を相手に戦うだろうと報告した。これを受けてスターリンは師団の一部を西
部戦線およびモスクワ郊外に投入することができ、まさにこれによってモスクワへと進軍するヒトラー軍を阻止することが叶っ
た。確かに軍部隊の配置換えはゾルゲの報告だけによるものではなかった。これには満州にいたソ連のエージェンシーなど
の情報源も加味されていた。
ソ連側の疑心はゾルゲを非常に気落ちさせた。ゾルゲは回想録のなかでこう記している。
「私が集めた情報をすべてモスクワに送ったと考えるのは間違いになるだろう。いや、私は情報を自分の目の細かい
篩にかけ、絶対的な確信をもって、これは非の打ち所がない、信憑性があると思われるものだけを送ってきた。政治状
況、軍事状況を分析する際も同じ姿勢で行なってきたのだ。」
ゾルゲのもつ分析能力と広い博識が功を奏して、彼は日本で様々なコンタクトを取得することに成功する。そのつながり
のおかげでゾルゲはほぼ第1人者に近い筋からの非常に価値の高い機密情報を得ることが出来た。ゾルゲが日本に渡った
のは1933年9月。ドイツの主要な新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員としてだった。新聞にはゾル
ゲが定期的に執筆する記事が掲載され始める。そんな記事の見出しを読むと、「日本の軍事力」、「日本の財政配
慮」、「近衛公、日本の力を結集」、「日英の不透明な関係」、「軍事立法における日本の経済」などが挙げられる。
認識的な資料、日本の将来についての考察がちりばめられたこうした記事は明確な政治的帰結を含んでいたため、すぐ
さま注目を集めた。ゾルゲはオイゲン・オットー駐日ドイツ大使の信用を勝ち得るようになった。オットー大使はしばらくすると
日本がベルリンに宛てた大使館機密情報の編集まで頼むようになる。後にゾルゲはドイツ大使館の広報担当大使館員兼大
使顧問となった。ゾルゲは最重要証拠の60%をまさに自分の執務室で、または大使の妻から入手していたのだった。こ
れにある種の役割を演じたのがゾルゲのもつコミュニケーション能力の高さと魅力的な人格だった。だが最たるものは高い知
性と多くの問題についての豊富な知識、先を見通し、全体を見渡して帰結を出すことのできる力だろう。ゾルゲは日本に渡
る前に、日本の歴史、経済、文化について大量の資料を読み込んでいたが、それはちゃんとした理由があってのことだっ
た。
かなり短い期間でゾルゲは日本で見事に非合法活動を行なう諜報団「ラムゼイ」を作り上げた。そこには合計30人以
上のメンバーが入っており、中核にはゾルゲ本人、無線技師のマックス・クラウゼン、洋画家宮城与徳、ジャーナリストのブ
ランコ・ヴケリッチ、日本人ジャーナリストの尾崎秀実がいたが、尾崎はゾルゲにとっては最も重要な情報源となった。ゾル
ゲ諜報団は万人にアクセスが開かれた情報源のみならず、日本の閣僚、将官団、大産業家などをつかって最大限、諜報
情報を引き出すことに成功していた。
この一団にはたった一人の共産党員もいなかった。そしてこれはゾルゲのとった第1の安全対策だった。というのも、日
本の警察や特高は共産党員を捕まえようと「赤」狩りをして、彼らの痕跡を見つけ、諜報団自体の存在を突き止める危険
性があったからだ。数年にわたりこの「ラムゼイ」は日本警察の鼻面の前でたくみに振舞い続けた。ゾルゲ自身には目に
見える、そして見えない様々な監視がついていたにもかかわらず。
いくつかの諜報情報が日本の特務機関に傍受された際も、特高はそれを解読したり、送信地点をすぐに突き止めること
は出来なかった。ところが送信ステーションはすぐ鼻先の東京郊外にあった。諜報団がこれだけ見事に成し遂げた理由につ
いて、ロシア日本学者協会の幹部、アレクサンドル・クラノフ氏は次のように語っている。
「まず、これはゾルゲの教育レベルの高さとプロとしての豊かな経験のゆえんだろう。ゾルゲは忍耐強く非合法活動に
接していた。とはいえ、時にこれを軽蔑していたことを物語る証拠もたくさんある。もちろん、ゾルゲは非常についてい
た。彼は危険を犯していた。あたかも運命を相手に競うかのように。ゾルゲは日本の警察のよけいな疑念を払拭すること
に成功していた。なぜならドイツ大使館という格好の隠れ蓑があったからだ。もうひとつ、ゾルゲの成功を促した要因があ
る。1930年代半ば当時、日本の治安維持機関はこれだけの規模の諜報活動を相手にするには準備が足りなかった
のだ。」
だがなぜ、ゾルゲの諜報団は逮捕されてしまったのだろうか? これについてフェシュン氏は次のように語っている。
「この一団はずいぶん前から追跡されていたのだが、どうやら証拠不十分だったようだ。ゾルゲに通信機で、ソ連大使
館の代表らが直接彼とコンタクトを取るといわれたとき、ゾルゲはこの契約は暴露されるだろう、つまり破綻したことが分
からないはずはなかった。
このとき、ゾルゲの心中で何が起こっていたのか、我々は知る由もない。だが、ゾルゲ本人がミスを犯すはずはなか
った。ゾルゲを近寄せたのはソ連側の担当者らだった。諜報員が在東京ソ連大使館職員と直接的にコンタクトを取る場に
引き出されたとき、日本の防諜機関には直ちに出動命令書が出された。
もちろん、有名な外国人ジャーナリストの彼には多くが許されてきたし、これといって大きな疑惑の念がもたれたこと
はなかった。だがソ連大使館の公式的な代表者に呼び出されたということは判決を言い渡されたも同様だった。これが内
務人民委員部機関の知識不足なのか、または故意の煽動だったのかは明らかにされていない。」
いくつかの証拠によると、1943年9月29日、ゾルゲに死刑判決が言い渡された後、日本はソ連に対して、ゾルゲ
と、ノモンハン事件で捕虜となった日本人軍人の交換を申し出ていたことがわかっている。人質交換を許可できた人物はた
だ1人、スターリンだけだった。なぜスターリンはこれに応じなかったのだろうか? ひょっとすると、スターリンにはゾルゲ
が「二重スパイ」であるかのような話が伝わっていたのかもしれない。本当にゾルゲは二重スパイだったのだろうか? こ
れについてクラノフ氏は次のように語っている。
「ゾルゲを『二重スパイ』と呼ぶには条件がある。ソ連側はゾルゲが送ってくる内容はベルリンにも送られていること
は把握していた。ベルリン側が知っていたのはゾルゲがベルリンに情報を送っているということだけだった。これはあまり
にも大きな違いだ。」
「もし平和な社会に生まれ、政治的に平和な環境にいたら、私は間違いなく学者になっていたはずだ。少なくとも、諜報員としての仕事を選ばなかったことは確かだ。」
ゾルゲの独房での手記はこう語っている。彼は一体どんな人物だったのだろうか? 敵の穴のなかで働き、長い間、こ
んなにもうまくカモフラージュできたとは、どんな資質を兼ね備えていたのだろう。この問いをまずはフェシュン氏にぶつけて
みた。
「ゾルゲはロマンチストだった。スパイの仕事を始めながら、ゾルゲはプロとしてのロマンチシズムの時代を体験して
いる。スパイとしての自らの課題を彼は日本のソ連侵攻を防御することと捉えていた。そしてこれは彼にとっては平和を求
める闘争のロマンチシズムだったのだ。これは彼の上海時代に、運命のいたずらで彼がソ連諜報機関のレジデントにな
り、甚だ功績を挙げてしまったときにすでに発揮されていた。ゾルゲのあらゆる方面に均一の取れた性格、やりくりのうま
さ、人付き合いのよさも発揮された。
だが常に緊張の中で生きるというのは誰にでも出来ることではない。ロマンチストであるからこそ、ゾルゲは神経質にも
なった。それでも彼は人目を惹く人間であり、絶好の話し相手でありつづけることができた。彼は美しい人物で非常に勇
敢だった。女性たちは彼に夢中になった。おそらくそれだけのものがあったに違いない。ゾルゲが本当に一貫した、一様
な性格の持ち主ではなかったことは確かだ。」
クラノフ氏の意見はこうだ。
「残念ながらゾルゲの恋人だった石井花子の著作、『人間ゾルゲ』はロシア語には訳されていない。訳されていれば
多くの面白い事実を知る事が出来ただろうと思う。この人はまちがいなく完全な、そしてあまりにも高度な知性をもったとて
も強い人物だ。当時の描写のそこここから、ゾルゲがいかに敏感で注意深く、強い意志力をもった人間かがわかる。
もちろん、彼は強いエネルギーと芸術家としての資質を兼ね備えていた。必要と在らばゾルゲは人を魅了し、自分にひ
きつける事が出来たのだ。
彼は惚れっぽく、数々の女性を相手に名声を上げた。花子のゾルゲへの愛の物語はロシアでも日本でも十分に評価さ
れていないと思う。8年ものスパイ活動をゾルゲは常に高度の緊張状態で行なっていた。このため時に激しい感情の起
伏に襲われることがあったが、これは十分に説明がつく。まあ、まったく普通とは違う人間だった。」
ゾルゲの働きの意味をまとめると、これは日本とソ連の間の戦争勃発を防御することにあったが、実際ゾルゲによってこ
れは見事に果たされた。たしかにゾルゲは「日本の国益を損傷した」として裁かれたが、事実上はゾルゲは日本を敵にし
たわけではなく、なんとか日本とソ連に戦争が起きぬように働いていただけなのだ。今の日本人の解釈はまさにこうであり、
だからこそ、未だにゾルゲの墓には花が絶えない。リヒャルト・ゾルゲについてはロシア人もそして外国人も多くの調査を行
い、執筆を行なっている。残されていた古文書もほとんど全てが公になった。ゾルゲの名は伝説となり、その歴史はどこま
でが真実でどこからが嘘なのか、見分けがつきにくいほどに数々の伝説がまとわりついている。何か新たなことを探し出すこ
とは難しい。この番組ではゾルゲの人生の最後を少し取り上げてみた。リヒャルト・ゾルゲ没後70周年の前日に再びこの
人物を思い起こし、その功績を讃えたい。