Сергей Елисеев: русский, спасший Киото (на яп. языке)

初のロシア人東大生エリセーエフ
2014年7月24日 アレクサンドル・クラーノフ
10年前に観光で京都を訪れた時、私は日本人ガイドのある質問を聞いた。「太平洋戦争の時、アメリカ軍がなぜ京都を攻撃しなかったかご存知ですか。今日日本の象徴となっている、このようなお寺や公園が残っているのは、誰のおかげだと思いますか」。ガイドをがっかりさせたくはなかったが、私は答えを知っていた。「神道国際学会」の梅田善美理事が、これより以前に驚くような話を私に教えてくれていたのだ。「京都の救済者」は、セルゲイ・エリセーエフだと。
エリセーエフは1889年1月1日、サンクトペテルブルクの富豪の商家に生まれた。父親はサンクトペテルブルクのネフスキー大通りとモスクワのトヴェリ通りの幹線道路で、ロシア最高の食料品店「エリセーエフ商店」を経営していた。現在でも店は残っている。ロシア革命や戦争などで生活が大きく変化する中、店というより美術館といった方がふさわしい、美しいエリセーエフ商店は、100年もグルメ天国となり続けている。

セルゲイ・エリセーエフ
 エリセーエフ一家は、自分の人生だけでなく、自分を取り巻く社会に貢献できる、エネルギッシュで教養の深い人を高く評価していた。セルゲイは子ども時代、外国語の学習に熱心で、しばしばヨーロッパを訪れていた。11歳の時、パリ万博で日本館を見て魅了される。最終的に日本を研究しようと決めたのは、1904~1905年の日露戦争でロシアが敗戦した後。敗因を理解しようとしたのだ。1907年にベルリンに行き、そこで日本語の勉強も始め、1年後に東京帝国大学に入学。

卒業式で驚いた明治天皇
 東大を卒業した初のヨーロッパ人となった。1912年の卒業式で、明治天皇が「この方は?」と上田萬年学部長に質問したことを、セルゲイは後年楽しそうに話していた。「明治天皇があまりにも驚いていたため、まわりは卒業証書を渡すことを遠慮した」 という。
 エリセーエフは成績優秀だった。日本史を隅から隅まで学び、古事記から夏目漱石まで、日本文学の深遠な知識を得た。夏目漱石とは2年の時に知り合い、しばしば遊びに行って芥川龍之介や小宮豊隆などの有名な文学関係者と親交を深めた。大学での忙しい勉強以外にも、日本語を早く自由に話せるようにと、家庭教師を3人雇っていた。そのエネルギーは、人生や家族への愛と同様に尽きることがなかった。ヨーロッパ系美男子で教養のあったセルゲイは、芸者遊びを愛し、東京の美女たちと知り合いになった。

革命後の波乱の亡命生活
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 大学卒業後も、2年間東大で松尾芭蕉を研究し、その後ロシアに帰国してサンクトペテルブルク大学の私講師になった(私講師は、教授職には就いていないが、審査には合格して教授資格はもち、教育活動を行っている者の役職名)。
 だが1917年に起こったロシア革命は、そこでの学者としての道を閉ざした。ロシア有数の富豪の息子だったことから、抑圧の対象となり、1920年にフィンランド、その後フランスに亡命。
 パリの街角で東大時代の知り合いである若き外交官(後に首相となる芦田均)と偶然会い、日本大使館に就職。その後ギメ東洋美術館の日本コレクションの管理者となり、次にソルボンヌ大学の教授になった。フランスの日本研究学校の創設に大きく貢献したことから、フランスの市民権を授与され、その後セルジュ・エリセーエフというフランス名で知られるようになる。1934年、ハーバード燕京研究所と中国・日本研究センターの所長になる。

マッカーサーに日本の文化財保護を要請
 アメリカの日本研究界では、父・創設者の一人に数えられている。初期の教え子の中に、エドウィン・ライシャワーがいることを考えると、その功績には納得できる。ライシャワーは優れた日本研究者、駐米日本大使、また1960~1970年代の対日アメリカ政策の立案者の一人である。
 アメリカ人の日本研究家の多くは、第二次世界大戦の時、ダグラス・マッカーサー元帥に助言を行っており、またそれはエリセーエフの教え子、または教え子の教え子であった。私が冒頭に書いた京都の話は、この時期のできごとである。
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 後の本人談によると、アメリカ人が京都を攻撃すると考え、マッカーサー元帥にそれをしないよう要請した。攻撃された場合、日本だけでなく、世界の歴史と文化の遺産である数百堂の独特な寺と、数万の一般市民の命が消える。またそのような攻撃があれば、日本人の抵抗は強まるだけだと考えた。エリセーエフがマッカーサー元帥にどれほどの影響を与えたのかは不明。だが京都は攻撃されなかった。
 エリセーエフは1956年、年金生活に入り、その後パリに戻って1975年に生涯を閉じた。最後まで日本から訪れる自身のファンを歓迎し、日本人自身も忘れかけていた明治時代末期の美しい日本語で会話しながら客人を驚かせていた。なぜ救われた金閣寺を、日本の僧侶が燃やしてしまったのかについて、日本のガイドは今でも理解できないでいる。