Статья о русских воспитанниках Токийской православной духовной семинарии (на японском языке)
日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第2回目
先週もお伝えしました日本にあったロシア正教の神学校で学んだ生徒たちの運命についてお話する第二弾です。すでにお話しましたように、ロシアと日本の関係、政治的な争い、諜報活動というものと密接につながっている元生徒たちの人生は極秘の資料として、これからも公開されることはないと思われますが、それでもそのうちの何人かについては少しずつ秘密が解き明かされています。クロスコミュニケーション分野の専門家で、日本研究者協会の役員でもあるアレクサンドル・クラノフさんは、もうひとりの生徒、イシドラ・ニズナイコの人生について知る貴重な資料を手に入れました。資料を提供したのはニズナイコさんのお孫さんです。彼はこの資料を、祖父の思い出にと長年、保管してきました。アレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。
イシドラ・ニズナイコ、彼もまた驚くべき人物のひとりです。彼については、1年半ほど前に、資料を探しているときに出会った、彼の孫のおかげで非常に多くのことを知ることができました。その孫ももうかなりの年齢ですが、彼は祖父であるイシドラ・ニズナイコに関する資料が入った皮のスーツケースを大切に保管してきました。いつか誰かが必要とする日がくるだろうと信じていたのです。彼は、祖父がともに活動をした人々の過去を明らかにするために多くのことを成し遂げました。そして最近、ロシア移民に関する問題を扱うハバロフスクの事務局から資料を受け取りました。東清鉄道にかかわるロシアの移民を管理するために日本が1934年に作った組織にあった資料は、1945年にソ連に移され、現在はロシアの管轄のものとなったということでした。そこには満州に暮らしていたロシア人の何万件もの案件が記録されています。しかし、資料に添えられた手紙には、国家の安全を守るため、彼の祖父についても記録の10%も明らかにされていないと記されていました。
イシドラ・ニズナイコ
写真の提供者:アレクサンドル・クラノフ
アレクサンドル・クラノフさんの声でした。その資料によれば、イシドル・ニズナイコは1893年5月27日、クバン生まれ。3歳のときに、クバンコサック隊のメンバーだった父親が、東清鉄道の警護のためハルビンに出張しました。そして以来、ニズナイコは死ぬまで、この東清鉄道とかかわっていくことになったのです。1906年、東清鉄道の管理も行っていた外アムール国境警備局は、教育のため、東京のロシア神学校に8人の少年グループを派遣しました。そのひとりが当時13歳のニズナイコでした。実は1959年に、ニズナイコさんが子供や孫に宛てて、自分の人生について声のメッセージを残しています。その一部をお聞きいただきましょう。
1906年から1912年まで日本にあった神学校で学んだ。外アムール国境警備局からの奨学生という形だった。故郷や両親から引き離されたような気がして、とてもつらかった。しかしわたしは強くなり、あらゆる困難を乗り越えた。
イシドラ・ニズナイコさんの肉声のメッセージを一部、おききいただきました。イシドル・ニズナイコはもっとも優秀な生徒のひとりとされていました。そしてチェーホフやプーシキンの作品を翻訳していた神学校の学長夫人で、瀬沼夏葉(かよう)の名で知られるエレーナ瀬沼さんを助けていたと言われています。優秀な成績で神学校を卒業したニズナイコはハルビンに戻り、国境警備局の通訳として長年勤務しました。
スパイを養成するために、なぜ軍は若者を神学校に派遣すると決めたのでしょうか。実は1899年以降、ウラジオストクの極東大学が軍や艦隊のために同様の教育を行っていたのですが、ここで高いレベルの日本語を勉強した生徒たちはすでに大人になり、家族を養い、自分なりの考えや主張を持って、学術の世界での成功を望む人が多かったのです。そこで東京の神学校には、もっと若い人材を送りこむことで、日本語を話し、日本風の服装をし、日本の同級生たちと時間をすごし、日本に溶け込ませようとしたのです。
ニズナイコは道路管理局に勤めているうち、白軍、赤軍両方の、通訳として、そして同時に諜報員としてかけがえのない人物となりました。ニズナイコの手記にはこんな文章が残っています。
1918年、東清鉄道国境警備隊の主席通訳に任命された。日本人について、またシベリアにおける日本人の動向についての極秘情報を収集した。活動はかなり危険なもので、必要な情報はマッチ箱に暗号で書きしるし、家に帰ってそれを解読し、報告レポートを作成した。
それからずいぶん後の、ソ連国家安全局の書類には、ニズナイコは自らの活動の一部を恣意的に隠していた可能性があると記載されています。実際、オシェプコフ、ユルケヴィッチ、プレシャコフといった神学校時代の仲間たちは同じ罪で命を落としました。しかしニズナイコは自伝の中で、自分が国に対して忠誠を尽くしたことを強調していました。たとえば次のような記述が残っています。
1919年、駅で、荷物を積んだ2つの車両の職員を拘束した。車両には、白軍のセメノフがチタで積んだロシアの金と、日本人が灰に見せかけて運んだ日本の軍人が乗せられていた。武器もなく、われわれは抵抗するすべもなく、ただ撃たれただけだった。結果、ロシアの金を載せた車両はわれわれの眼の前で、猛スピードで長春へと向かっていった。おそらく日本の車両に積み替えるためだろう。われわれは報告書を作ること以外、何も手を打つことができなかった。
1935年に鉄道が日本側に譲渡された後、ニズナイコはしばらく職を失い、重い病気にかかります。しかしそのときには彼はすでに東清鉄道でも有名な人物となっていたため、まもなく市当局の日本語通訳として働くようになりました。そしてそこに1941年の3月まで留まりました。これについてアレクサンドル・クラノフさんは次のように話しています。
移民のための新聞の一部が当時の雰囲気を今に伝えています。「イシドル・ニズナイコの日本語は、美しい菊の花と優雅な芸者たちのアーモンドのような瞳を思い起こさせる。日本人でも彼と知り合って話をすると、最後に必ず、帽子をとらせて、彼の髪の色を確認しようとするのである」
そしてもうひとつ、ニズナイコの回想に次のような文章があります。「日本人と働くのはもちろん容易ではなかった。我慢をすることが求められ、あらゆる手段で、ロシア人とロシアの問題を守らねばならなかった。わたしが日本人からあまり好かれていないことは最初から明らかだったし、出世することもなかった。わたし自身もそれを期待してはいなかった。
1941年3月、日本人の配置換えが行われるのを避けて、ニズナイコはふたりの息子を留学させた上海へと拠点を移しました。上海では大きな手術を受け、日本語の教科書を出版しました。1942年に上海で出版された教科書というのは、年代としても、出版された場所としても、かなり珍しいもののひとつでしょう。編者からの序文には、東京の神学校卒業30年を記念したものだと書かれています。残念ながら、この教科書が何部、出版されたのかははっきりしていません。
イシドラ・ニズナイコの日本語の教科書
写真の提供者:アレクサンドル・クラノフ
1945年に満州赤軍に入ったニズナイコは、ウォトカおよびワイン生産連合書記」という役職を与えられます。その後、彼はハルビンでの軍事諜報活動機関によって逮捕。尋問を受けたものの、審理もなく、釈放されます。神学校の他の生徒たち、また東清鉄道の多くの職員とは違い、ニズナイコは粛清の対象にならなかったのです。なぜ彼は命を落とさずに済んだのでしょうか。その謎は、明らかになっていない90%の資料に隠されているのかもしれません。
ニズナイコの息子、ヴィクトルは1949年、上海からソ連へとうまく帰国しました。一方、イシドル・ニズナイコ自身は1954年まで満州で生活し、この間、ずっと中国の長春鉄道の主任通訳をし、スターリンの死後ようやくソ連に帰国しました。イシドル・ニズナイコは1968年にこの世を去りました。子孫によれば、死ぬ前に祖国に戻れたことをとても喜んでいたといいます。そして子供たち、孫たちに、自分と同じように祖国を愛せよと教えていたそうです。
というわけで、東京にあったロシア正教の神学校で学んだ生徒たちの運命についてお伝えするシリーズ、今日は2回目をお届けしましたが、来週は、ニコライ神父が、学校の中で未来のスパイが養成されていたことを知っていたのかどうかという疑問に迫りたいと思います。