Статья о русских воспитанниках Токийской православной духовной семинарии (на японском языке)

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか 第3回目

先々週から、かつて日本にあった神学校で学んだ生徒たちの運命についてお話してきましたが、今日はその最終回。ウラジーミル・プレシャコフを取り上げます。

東京の神学校で学んでいた生徒の中で、その後の人生について比較的明らかになっている人物は多くはありません。そのうちの二人、ワシリー・尾シェプコフとイシドル・ニズナイコについては、これまでの番組でお話しました。彼らとともに学んだウラジーミル・プレシャコフもまた、彼らと同じように諜報活動を行っていました。ロシア帝国、白衛軍、そしてソ連のスパイとして生きたのです。しかし分かっていることはそうたくさんはありません。

ウラジーミル・プレシャコフは1937年9月にソ連の内務人民委員部により反革命諜報テログループに属していた疑いで逮捕されました。モスクワのブトゥイルスカヤ刑務所で行われた尋問の記録によれば、プレシャコフは1892年、バクー市のコサックの家に生まれました。19世紀末といえば、コサックたちが、石油の産地や外カフカス地域のロシア人地区の警備の仕事を与えられるようになった時期でした。1900年、プレシャコフの父親は東清鉄道の建設と警備のため、ハルビンへと向かいました。日露戦争の終結後まもなく、外アムール軍管区の指令により、いくつかの児童のグループが日本へと派遣されました。こうした動きにはどのような理由があったのでしょうか。この問題について研究を行っているアレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。

日露戦争の敗戦の重要な原因のひとつとして、日本語、中国語、韓国語といった東洋言語の通訳が深刻な不足状態にあるというものが挙げられていました。この不足を解消するために、さまざまなプロジェクトがまとめられました。中でもエキセントリックだったのが、ソウル、ペキン、東京の在外公館の中に、幼稚園と、プロのスパイを養成するための学校を創設するというもので、幼稚園や学校にはブリヤートやモンゴルといったアジア系の外見を持つ孤児を送ることが検討されていました。しかしこのプロジェクトは実現しませんでした。それよりも東京にある神学校に子供たちを送り込んだほうがいいという考えに至ったのです。

アレクサンドル・クラノフさんの声でした。1906年、高い能力を持つウラジーミル・プレシャコフがグループのひとりに選ばれ、日本での研修に送られました。ウラジーミル・プレシャコフについて、ニコライ神父の日記にはこう記されています。「神学校の年少クラスで旧約聖書の歴史に関する試験を行った。クラスでは24人が学んでいたが、そのうち5人がロシア人だった。年少のプレシャコフ以外の生徒たちはうまく答えることができなかった」1912年、ウラジーミル・プレシャコフは優秀な成績で神学校を卒業し、その後2年間にわたって外アムール軍管区本部の通訳として勤務しました。

第1次世界大戦の勃発とともに、若き通訳のプレシャコフは前線に送られ、中尉の称号を与えられます。そして1918年にはハルビンの故郷に送られましたが、オムスクまでしか辿りつけませんでした。オムスクではコルチャーク大将が反ボリシェヴィキ政府を打ち立てていました。プレシャコフはここで諜報機関の将校となりました。なすべき仕事はたくさんありましたが、白軍の重要な諜報活動のひとつが日本に関するものだったのです。

よく知られていますように、コルチャークは日本人を信用していませんでした。日本人もまた彼を信用していませんでした。この不信感がもたらされたきっかけとなったのが、諜報機関の次のような報告書でした。

産業のための資源が不足し、他の市場を取り込もうとする日本は、資源が豊富で産業があまり発展していない中国、ロシア極東といった地域の領土を占領するという外交政策をとっている。ボリシェビキ(赤軍)との戦いを名目に日本は軍を出動させ、シベリア占領を狙い、広大な土地や建物、壕、産業施設などを購入、日本企業への融資のための銀行支店を開設している。

極東におけるこうした状況を知り、日本の利益とロシアの利益が一致していないことを理解したコルチャークでしたが、武力を用いることを決心できず、その結果、自らの滅亡を招くことになりました。

プレシャコフが機密情報を直接、入手することができたのかどうかについて、はっきりとした記録はありません。ただ1919年にコルチャークが逮捕された後、プレシャコフが日本の諜報機関側についたという証言をしたという謎の事件があります。しかしコルチャークの逮捕は実際には1920年の1月末で、コルチャークの下で勤務する少佐がいかにして日本側につくことができたのかは分かりません。しかし、プレシャコフは日本軍歩兵第11連隊の本庄繁隊長の通訳となりました。本庄繁連隊長は後に大将となり、男爵をとなり、華族に列せられ、枢密顧問官になった人物です。1920年の春に日本軍がザバイカリエ(外バイカル)から撤退したあと、プレシャコフはハルビンを経由して、ウラジオストクに移動しますが、そこでソ連政権の誕生を迎えます。

 1923年5月、プレシャコフはソ連消費者協会の通訳として函館に到着します。この消費者協会は、日本でソ連と日本の漁業関係者の参加による海産物加工の問題を取り扱っていました。この消費者協会というのがプレシャコフにとって、都合のよい隠れ蓑になっていたと思われます。軍事諜報の歴史に詳しいミハイル・アレクセーエフさんは次のように書いています。

「神学校の最初の卒業生だったウラジーミル・プレシャコフとオシェプコフは非常に近しい親友のような関係だった。1923年5月以降、プレシャコフは諜報活動に協力するようになり、オシェプコフから教えてもらった函館の消費者協会で働くようになった。つまりプレシャコフを消費者協会につないだのはオシェプコフだったのだ」

 プレシャコフは1928年まで函館にいましたが、その後、ふたたびハルビンに戻り、1935年まで東清鉄道で働いていました。鉄道が日本に譲渡されるまでということになります。そしてその後はモスクワに移りました。尋問でプレシャコフは日本の諜報機関に雇われ、ソ連軍との戦闘に参加したと自白しています。当時、このような自白をさせるのは難しいことではなく、誰も彼の諜報活動がどのようなものであったのかということには関心を示しませんでした。しかしプレシャコフはなぜソ連軍の諜報活動を行っていたことを言わなかったのでしょうか。この問いにはまだ答えは出ていません。

  もしかするとそのことを口にしたものの、警察が信用しなかったのかもしれません。彼らは少しでも早く、日本の諜報機関に協力していたと報告したかったのです。日本に対する敵対心がとくに高まったのは1937年夏のことです。日本研究者だけでなく、日本となんらかの関係がある者はすべて日本に対するスパイ行為を行っていたと非難されました。そして判決はすぐに下されました。1937年プレシャコフはモスクワ郊外のブートヴォ射撃場で銃殺されました。家族についての記録は何も残っていません。

  ここでもうひとつ疑問が沸き起こってきます。それは東京の神学校は本当にスパイの学校だったのかということ、そしてニコライ神父はそのことを知っていたのかということです。研究者のアレクサンドル・クラノフさんにふたたびお話を伺いました。

  「私が集めた資料や記録を読んでいて思うのは、ニコライ神父がもし生徒たちの将来について何か疑問を持っていたとしたら、スパイ養成の意味はなかったのではないかということです。それを証明するようなエピソードがあります。軍の司令部は何度も繰り返し、生徒の数を増やすよう要請していました。しかし神父は、学校はたくさんの児童を受け入れることができないとして、それを毎回断っていました。そして「学校は日本の聖職者とロシアの通訳を育てることを目的としている」と書いているのです。

  日本の神学校を卒業した若者すべてがスパイになったわけではないでしょう。スパイになるような能力のない者もいたでしょうし、研究や教育、あるいはロシア正教の活動に進んだ者もいたでしょう。そして戦争や革命で命を落とした者もいたでしょう。日本側についた者もいたはずです。日本もロシア帝国、そしてソ連の動きについて、積極的に諜報活動を行っていたのですから。

  というわけで、先々週から3回連続で、研究者アレクサンドル・クラノフさんのお話を交えながら、日本にあった神学校で学んだ生徒たちの運命についてお伝えしてまいりましたが、今日でそのシリーズはおしまいです。しかし、当時の日本とロシアの関係については多くの興味深い資料が残されています。またいつか機会があれば、番組でお話したいと思います。

The Voice of Russia, 16.10.2012

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